July 11, 2012
インターネットが普及するより昔、パソコン通信で掲示板にアクセスしていたころに、匿名で「荒らし」を行う行為に対して、掲示板の管理者の人に言われた言葉がずっと僕の中では一つの価値観になっている。
「ネットで荒らしをやってる子達は、実は、そんなに悪い子はいないんだよ」
僕の中で、始めての「ネットとリアルが現実に結びついた犯罪事件」は、2ちゃんねるの書き込みから、バスハイジャックが起きた事件だった。
あの事件は衝撃だった。
「あ、ホントに事件が起きる時代になったんだ」
そして、秋葉原通り魔事件(無差別殺傷事件)。日本でのツイッターの普及初期の事件だった。丁度、リナックスカフェに集うツイッター仲間が、UStreamで事件後の状況をライブ中継していて見たあの光景は、秋葉原という「日常」が「非日常」になった瞬間だった。
犯人の加藤智大被告が手記を出版するというので、ワイドショーで取り上げられていた。
この犯罪の直接のきっかけは、オンライン上のいじめ者に対して、精神的攻撃を与えるために思いついた行為だったとあるそうだ。
現実社会で孤独になり、オンラインの掲示板に活路を見出したが、そこでも、いじめられてしまい、本人に成り済まされることでネットワークから抹殺されそうになった。誰だかわからない、いじめ相手に対して攻撃を与える方法が、無差別殺傷事件を起こし、世間から注目されるという、自爆戦法である。
秋葉原を選んだのは、効果を最大化する場所が大都市=東京で、知っている場所が秋葉原だったとのこと。
犯罪心理学の先生が、過去の無差別殺傷事件は、恨みを与えたコミュニティに対して攻撃するものが、彼は秋葉原という無関係な場所を選んだのが新しいケース、と言っていた。
しかし、バーチャルグラフ(オンラインで知り合った人との人間関係)上でのいじめに対する精神的攻撃なのであれば、その効果を最大化する場所が秋葉原、というのは本人が無自覚だったとしても理解はできる。
TVではコメンテーターが、謝罪は最初の数ページだけで、それ以降は責任逃れに終止している、と言っていたが、果たしてそうなのだろうか。この責任逃れ、というキーワードが気になっている。手記を読みたい気半分、読みたくない気半分。
個人的な行為が、外部のしかも無差別殺傷に繋がるという精神的ロジックは全く共感も理解もできないが、孤独感が辛いという部分だけは非常によくわかる。もし、この事件のきっかけがオンラインでの出来事だったのであれば、その魂を救済する場所が、匿名掲示板だろうがクローズドコミュニティだろうが作れなかったものか、とはネットサービスを作る者としては思わんかぎり。