August 08, 2011
ちょっと前に相互フォローというハッシュタグを使う人を気持ち悪いと言う騒動があったが、よくよく考えてみると、2007年のツイッター開始当時、誰がツイッターをやってるかわからなかったので、はてなグループのついったー部で、フォローしても良い人リストってのに名前を連ねていたではないか。
実質的に相互フォローを許容するような感じで、フォローフォロワーを増やして行ったわけだが、それと相互フォローのハッシュタグは何が違ったのだろうか。
結論を書くと、相互フォローについての価値観の他人への押しつけというあたりが理由なのはわかっているのだが、新興宗教的だ、と例外視するのではなく、ネットに対する考え方の違いがあるとすればベースとする共同体の違いかなぁと思ってみた。
2007年当時のツイッターの流入動線というのは、要するに「ブロガー界隈」で、「はてな」という言葉が普通に通じる世界だったと言える。
仮想共同体としてはてなブックマークやはてなダイアリー、アルファブロガーやギークなどというベースとなる世界があって、その人たちが支えていたのが初期のツイッターブーム。あえてこの層を「インターネット標準型」の人達と表現する。
それがユーザーが増えて行き、技術的知識的な障壁を超えた層が変わって行って、独自の価値観を持つ、ヤフーブログやアメブロのユーザーに変わって行く。マーケティング的に妥当かはわからないが、もしかしたらこういうのを「キャズムを超える」と表現するのかもしれない。「勝手フォロー禁止」や「無断リンク禁止」という考え方で、インターネットの標準よりも、人間的な筋道を大事にする人達だ。
共通するのは、どこか「人間的」な部分が見えてくる。人のブログにリンクするなら一言断りなさい、とか、人のことをフォローするなら、自分もフォローするよね?とか、日常生活の人間関係に当てはめて面と向かって話をしていたら、そんなに違和感のある考え方ではない。
最近、ネットコミュニケーションの発生の仕方について、コミュニティが先か、情報が先か、という議論をしたことがある。
かつてパソコン通信の世界には、フリートークの掲示板というのが存在した。つまり、何の理由も無く集まって会話をして会うコミュニティだ。
これが今のインターネットでは成り立たないと言う。というのも、パソコン通信は、パソコン通信をしていることが既に参入障壁だったので、そこに入ってきた人たちは、共同体意識を持っていた。つまり○○ネットの参加者の時点で特殊な世界が存在していた。「ようけここまでいらっしゃったね!」という状態だ。そういう意味では、パソコン通信という「情報」があってこそ、フリートーク掲示板が存在し得たということになる。
ところが、インターネットにおいては「インターネットをやる人」という言葉に何の価値もなくなった。2000年ぐらいの頃はまだ多少あったかもしれないが、携帯電話がデフォルトでインターネットに接続できるようになった今は完全になくなった。インターネットは空気のような存在になり、これがコモディティ化ということなんだと思う。
今のインターネットで共同体意識を持って会話を成立させるためには、何かの理由が必要となる。一番わかりやすいのは趣味のサイト。例えば車で、同じ車種という共通点で集まる掲示板などがわかりやすい例だ。
インターネットのコモディティ化でおそらく死滅してしまったと思われるのは、フリートークコミュニティだろう。フリートークなだけでテーマ性を持たないメーリングリストコミュニティや掲示板コミュニティはSNSの登場を待たずに死滅していたと思う。
そうなると次に必要になったのがSNSやソーシャルメディアという枠組みだった。それが初期のグリーやミクシィを支えていた。SNSが時代に即していたのは、「友達関係」という新しい理由を持ち出したところだ。招待性という一見数が増えない仕組みを導入することで逆にお互いが繋がるための理由を作った。ネットに接続することがコモディティ化したからこそ実現できる枠組みになった。これは今のフェイスブックやリンクトインまで繋がる流れとなっている。
ツイッターはどうだっただろうか。初期のツイッターは、はてなをベースとしたブログ界隈のユーザーが繋がった、というのがポイントではなかっただろうか。そう考えてみると、はてなブックマークは、ツイッターよりももっと非対称だった。アルファブロガーと、見る者という関係性。アルファブロガー同士もそんなに出会う機会も無く、みんなが独立していた。それが繋がったのがツイッターだったと言える。
つまりツイッターの古参と呼ばれる人たちは、ツイッター上のアイデンティティにおいても基盤となるコミュニティが外部に存在している人も多く、それらを繋ぎ合わせるツールがツイッターだったと言えるのではないだろうか。
2007年、2008年は「ツイッター忘年会」というグローバルな名前のイベントが存在した。その頃のツイッターは、ツイッターをやっているという理由だけでお互いが繋がれる共同体だった。
しかし、ある一定以降のツイッターユーザーには、多分、それが存在しない。
それがいわゆる2009年2010年にツイッターを始めた人達だ。おそらく、勝間さんや広瀬さんがツイッターに参入した頃がその切り替わりのラインだと思う。
それはツイッターがコモディティ化してしまったインターネットと同じ存在になった瞬間だった。
以降、ツイッターに登録して、オススメユーザーを数人フォローしただけの人というのは、無視できないほどユーザーがいるのではないかと思う。ツイッターのフォロー数が10人以下のユーザーのかなりの割合はその辺で止まっているユーザーではないかと思う。ツイッターに登録するだけでは何の価値もなく、同じ話題を共有できるコミュニティを見つけられなかった人だ。あゆをフォローしたところで、ツイッターではファン同士の共同体は作れない。
そんな中で「コミュニケーションする理由」を作ったのが、【相互フォロー】だったのではないだろうか。相互フォロー推進という仮想コミュニティで共同体を作った、という意味で好意的に見ると、ツイッターをポジティブに楽しむ理由を提供していたというのはあるのかもしれない。別に彼らのやってることを擁護するつもりも、良いなと言うつもりもないが、マルチ的という表現があるとするならば、まさに殺伐とした都会の中でマルチや新興宗教がはびこる理屈と同じ事がツイッターでも起きていると考えるのが妥当だ。
「インターネット標準」のあり方は、非常にクレバーで独立した考え方だが考えようによっては、実力主義、自由で殺伐とした世界とも言える。また以外と特定の大学あたりの共同体がベースとなって、ビジネスやインターネットの仕組み面でツリー構造の関係性ができていることなどを想像してみると、そこのレイヤーとは完全に無関係の人達が、ヤフーブログやアメブロなどを利用しながら、現在のミクシィやツイッターやグリーやモバゲーのユーザー数を支えていると考えることは可能だと思う。