February 17, 2011
はじめてネットに繋いだときは。15歳の夜だった。自分でもびっくり、なんと20年以上前のことです。
高校に入って、いわゆるDOSが動く高性能なパソコン(X68000)を買って、アスキーが出していたログインという雑誌に載ってたパソコン通信の記事が面白そうで、夏休みにモデム買って、フリーソフトを使って、どうにか電話回線に繋いで、アスキーのログイン誌のスタッフの運営するパソコン通信ホスト(今で言うWebサイト)に繋いで、いきなりチャットルームに入って、大人の人と会話した。
その時、
「こんな鉄の箱から、人と話ができるなんて!」
という感動。
そこから一気にはまって、電話代が月10万円、電話代は遅れて請求されるので結果的に二ヶ月で18万円
今で言うパケ死ですわ。親に超怒られて、その夏で第一ネットブームは終わりました。
でもその短い間に、ネットで知り合った開成中学の子の人の家に遊びに行って、その流れで、オフ会にも参加して、東大の学生さんに出会ったりして、要は当時考えうる日本のヒエラルキーの頂点にいる人と出会ったことに感動してみたり、フリーソフトを手に入れるために秋葉原のツクモの荒井さんという神店員に声をかけて店頭のマシンでコピーさせてもらったり、、、、と、それまで狭い世界しか知らなかった自分の世界が一気に広がる感、というのは一気に駆け抜けたような気がします。
今より世界が狭いので、そこにいる人と繋がるスピードも速いのです。
ということを、
を見て、なんとなく思い出した。
当時、なんとした偶然か、TBSでパソコン通信を題材にしたドラマが流れたりして、なんとなく時代だったんですよね。
また、宮崎勉事件が起きたのが、丁度その頃だったかなぁ。
特にネットに繋ぐ人は、アニメ好きが多いものですから、要するに偏見との戦いになるわけですね。
当然、「電子メール」なんてものが日常で通じるハズもなく。
繋がる楽しさって、説明できないもんね。
今でも昔でも、「自分の世界の広さ」に満足してしまってる人に、それよりも広い世界の魅力を伝えるのって難しいと思う。
僕の第二期パソコン通信ブームは、大学に入ってから。
バイトをして電話代を実家に入れられるようになってから、前ほどバカしない範囲で、楽しんでおりました。
パソコンは相変わらず同じマシンを使ってて。
でも、大学生活で車を手に入れて、世界が広がったので、パソコン通信にひたすらハマるというわけでもなく。
そのかわり、車でネットで知り合った人たちと遊ぶようになった。
まぁそれなりの年齢ですからネット経由でもいろいろありまして、結果的には、今の奥さんと知り合って結婚まで至ったので、僕にとってのネットは、極めてリアルな存在なのであります。
そんなこんなで、最初にパソコン通信始めたときから、ネット歴は20年選手ということになります。
パソコン通信からインターネットに主流が移って、当時、僕らはインターネットのcgiの掲示板に移行すべきか否かというのを議論したことがありました。
そのネットでの議論の結果としては、否。
当時のcgiが主流のインターネット掲示板は、Linuxのコマンドラインのように動くパソコン通信のホストに比べたら、圧倒的に使いにくかったため、拒否反応があったのです。
今のPC Webサイトと携帯サイトの違いみたいなもので。PC Webサイトの人は携帯サイトに拒否感がありますが、それと全く同じでした。
でも、接続性はインターネットの方が圧倒的に優れていたため、そこに生き残る人と、僕のように去って行く人でわかれることになりました。
いわゆる、「イノベーションのジレンマ」そのものです。
僕が携帯サイトに(自分は使わないけど)偏見がないのはこの経験をしていたからです。
ただ、じゃぁインターネット、Webが僕にとって居心地が良かったかと言うと、ちょっと違っていて、基本的にはオープンな議論が好きだったのですが、オープンなWebの代表例というと、2ちゃんねるに代表される殺伐とした匿名性でした。
匿名性による殺伐感が苦手というよりは、一番苦手だったのは、匿名性で発言のアイデンティティが維持されないのと、人材流動性が高いことで、スレが変わるとまた同じような話になってしまう、ということでした。刹那的な情報収集には良いけど、自分の居場所ではないと思っていました。
また、もう一つ、メーリングリストブームがあったことも挙げられます。ただ、こちらはこちらで、かなりクローズド。それなりに楽しんではいたものの、発言の到達範囲がメーリングリストの範囲ですし、何せメールが共有されて送られてしまうことから、長文書きとしては思いっきりやれないというストレスを感じていました。
日記cgiを経由しSEOに優れたMovableTypeが出てきてblogを始めて、自分の城を持つのは感激でした。どれだけ文章を書いても誰にも文句言われないし、検索エンジンから人が訪れるし。
ただblogは多くの人に読んでもらうために競争原理が働くので、人の評価が気になるもので、結構せわしないです。以前は、はてなブックマークの数などを出していましたが、「評価されること」と「評価されないこと」は表裏一体なので消してしまいました。趣味なのですから、自分にとって都合の良いものだけが目に入れば良いのです。
また既に良い大人になっていたので、チャットやICQ,IRCなどのリアルタイムなコミュニケーションにコミットする余裕も気力もない、というあたりでネットに閉塞感を抱いていたところでした。
そんな中で、人が集まりはじめていたのがツイッター。2007年の3月組です。
オープンな議論ができて、フォロー、フォロワーシステムによって相手の場を見る権利は相手によって守られるので、気兼ねなく書き込みができます。
気に入らなかったらリムーブしてください、と。最近は気を使うかもしれませんが、特に最初は、何の気なしにフォローして(フォローを返す必要はない)、気になった話題にリプライを返して、そんな感じで人と繋がって行く。気楽さが魅力でした。
さらに、140文字というちょっとした文章の制約によって、瞬時に誰かの感情はタイムラインを駆け抜ける。そして何かの話題で、お互い関心ができた場合には、「@」fshin2000をつけてメッセージを投げてもらうことで、自分がその時間、忙しくても、後からその話題をキャッチアップすることができる。
非同期にコミュニケーションが成立するというところから、社会人でもチャットのようなコミュニケーションができるようになる。というわけで、いつでもどこからでもツイッターが楽しめる…よって、携帯電話でツイッターができたら楽しいだろうという流れで、モバツイを作り始めるに至る訳です。
そもそもこんな育ち方をしてしまってるので、Facebookに興味を持てるはずがない。
実名、匿名で世界を分けたいとか、そういうことじゃなくて、実名で繋がる世界に魅力を感じていない。
多分、先のエントリーの著者が、自分はデジタルネイティブではない、という話はなんとなくわかるような気がしたりするのですが、どうなんだろう。言ってること違うかな。
デジタルネイティブというのは、Facebook的世界観なんじゃないかと思う訳です。つまり、当たり前のようにみんながネットに繋がる事で、リテラシー的にも数的にもできることが圧倒的に増えて、そこで新しい世界が生まれて行く。びっくりするようなお金持ちが生まれることもありうる。ザッカーバーグのような人が増える世界。
それはそれで素敵な事なですが、僕の場合はこう考えています。
「いや別にリアルな知り合いとネットで繋がったら便利なのはわかりますが、話題や感動の共有に知り合いも知らない人もないと思っていますので、その場その場のコンテキストで繋がれればそれで良いと思っています。」
この辺がツイッターの世界観とすごく近いので、ツイッターが楽しいと思っていますし、そもそも最初のパソコン通信がそんな感じだったので、その呪縛から逃れられないのかもしれません。
リアルとバーチャルという文脈で言うと、実は実生活は、むしろバーチャルだと思っています。
いわゆる「社会人リテラシー」によって作られる世界。会社名や学歴、社交辞令、ホンネとタテマエ…ビジネスマナー、大人の振る舞いという作法による繋がりはバーチャルそのものにしか見えない。
「○○会社の▲▲さん」と、「■■ゲームのハンドルネーム××」に違いを感じない。
「実名」+プロフィールというのが「実社会」というバーチャル世界で繋がるキーになるのであれば、その世界は一般的には「リアル」と呼ばれておりまして果てしなく世界は大きいしお金も動くわけですが、そりゃアイテムや防具が強い高学歴、大企業のホワイトカラーから普及するのは当然か。(でも一定数を超えたら関係なくなってくる)
そんな世界より、その場その場で生まれる、「感情」や「感動」で繋がる世界の方が、人間の根源的な部分においても「リアル」じゃないかなぁと思うのですが、別にFacebook上でそれができないわけではないと思うので、どっちが良い悪いではないのですが、わかりやすさ、という意味では、今のところツイッターで満足してます。そんな印象を今のところ思っています。
でもfacebookが主流になっていくインターネットを見ていると、もしかしたら、この考え方、永遠にマイノリティなのかもしれませんね、と、この文章を書いててちょっと思っちゃいました。
実名性というバーチャル空間の方が、多くの人には都合が良いのかもしれませんね。そもそも法律で守られますし。うーむ。ちょっとビジネス的には考え直そうかな。下手すると、インターネット、技術の普及と共に、こっちがITから離れていかないといけないのかもしれません。