August 01, 2009
佐々木俊尚さんの本を献本していただきました。ありがとうございます!
タイトルの通り、2011年は、新聞とテレビにとって大きなターニングポイントになっており、これまでの優位性が失われる年だということ。それによって起きることを書いた本である。
僕はベンチャー企業で、市場を作っていくことを信じて頑張ることに価値を見出している人間なので、間違いなく頑張っている人たちが沢山いる新聞やテレビを前にして、新聞やテレビが崩壊していく話というのは、話は大きすぎてどのように書けばいいかわからなかったので、頭の中で整理しようと結構時間がかかってしまいました。
もっとも感じたことは、
「これは佐々木さんだからこそ書ける本」
だと。それは本書の後書きに書いてある。
煤けたフロアには煙草の煙が充満し、怒声が当たり前のように飛び交い、殺伐としてひどい職場だったけれども、しかしみんな新聞を愛し、自分の書く記事に絶大な自信を持っていた。 〜中略〜 マスメディアは崩壊し、そしてこれから新聞記者たちは居場所をなくし、やがて古いメディアの業界は姿を消していくだろう
これは卒業生として、どうにも寂しい話だ。
自分が一時代をコミットしてきた世界がなくなることが嬉しいハズがない。
しかし、それが不可避である理由が本書には書いてある。
その何点かで気になった部分をできるだけ自分の言葉で書いてみる。あくまでも、えふしんフィルターが入っており、そもそも間違ってるかもしれないので、気になった方は絶対本書を買った方が良いです。
ここまで読んで後はスルーして本を買いに行くのもアリだと思います!
・マスメディアへの信頼度や新聞記者のクオリティは今も昔も高い。しかし、市場細分化や広告をめぐる環境変化により仮にネットで確固たる地位を得たとしても、今までのような売り上げを得ることができない。そもそもインターネットは、情報配信のコストを圧倒的に下げていることに魅力があり、かつ入り口をGoogleやYahoo!に押さえられてるのだから、情報伝達の上流(本書ではプラットホームと表現されている部分)の優位性をビジネスの要にしていた新聞屋には売り上げ低下の問題が直撃する。
・となると、数を背景にした影響力の維持が難しくなる。従来の新聞販売システムなどに根ざした数を得る仕組みが、インターネットのプラットフォーム企業に主役が変わってしまっていることで、マスメディアとしての力がなくなる。
・テレビは、電波利権に守られた番組編成権という限られたリソースを活用する独占的存在こそが、コンテンツ制作者を上回る優位性であった。しかし、地上波デジタルの電波の届きにくさ(山に囲まれた鎌倉などの地域で視聴できなくなる現象)に対して、広くあまねくテレビを見られるようにするという総務省の対策で、光ファイバーを利用したテレビの再送信が可能になる法案が提出されるかもしれない。
そうなると、コンテンツの配信をコントロールしてきたTV局の優位性が失われ、通信事業者やベンチャー企業などの異業種の参入を許す。
プラットホームとしての配信権をネットに明け渡すことが変化の第一報。
つまり「制作・著作 フジテレビ」というテロップがなくなる。
例としてアメリカのテレビ局の前例が紹介されていた。ハリウッドのプロダクションがコンテンツの権利を持つようになり、TVで放送されたドラマをDVDだけでなく、ネット、海外配信を含めた他のメディアに展開することを前提に、ハイクオリティなコンテンツを作っていることが、プリズンブレイクや24という作品を僕等が見ていることに繋がっている。
日本の場合はハリウッドがないのだからワールドワイドな展開というよりは、劇団のようなお金はかけないが実力はあって地域に制約を持っていたような存在が、コンテンツ提供者として力を持つのかもしれない。(と、竹中直人の映画の宣伝を見ていて、なんとなく思った)
・STB(セットトップボックス)を通じたリビングの戦いがいよいよ本格化してくるだろう。
・まだまだこれからも様々な企業やビジネスをチャレンジし、失敗していくだろう。その中でうまく進化していけない既存の新聞社やテレビ局は、その存在を維持しつつも徹底的な変化ができなければ、生きながらにして化石のような存在になっていくかもしれない。この化石化が一番怖い話で、周縁から溝を埋められ、気がついたらもう遅くバッタバッタと潰れ出すようになったら、もう崩壊の一途である。その時に、出てくるプレーヤーは、今のマスメディアとは違う組織がでてくるだろう。
STBについては、古くはWEB TVのような存在も含め、もう随分昔からいろんなプレーヤーがチャレンジしているのだがうまく行った試しがなかった。何故かというと、TV番組が流れるということは想定できず、その代わりとしてDVDで販売されてるような映画を流す「オンデマンドコンテンツ配信」という発想が、ユーザー数を取れない仕組みだからだと思う。
映像が好きな人は、「いつでも好きなときに好きなコンテンツを見られる」ということは魅力を感じるが、それだけでは大規模なビジネスにならない。「好きなとき」というのは「好きじゃない時に」には使われないことを意味するからだ。そのままでは稼働率が上がらない。
あえて言うなら、その「好きなとき」が本人の意識にかかわらず本能的に訪れる「エロ」だけだろう。最高のメディアデータ制御を行えるFlash Media Serverがエロチャットにこそ力を発揮されている現状を見れば、インターネットがあろうがなかろうが簡単なことではないことはよくわかる。
現状のWebサイトの強みが「ひまつぶし」と言われるが、それと同じく、TVの強みは「好きでもないときに電源が入ってる」ことだろう。
だからこそ数が集まり、共に広告が入り込む余地がある。
STBについては、リビングにて「とりあえず電気を入れる」ファーストデバイスの座を獲得することが一点。
そして、オンデマンドについては、「いつでも【自分が】好きなときに好きなコンテンツを見られる」ではなくて、「いつでも【紹介されたとき】にコンテンツを見られること」と、その「コンテンツ紹介機能」の両方が存在することが重要だ。
例えば、Youtubeの成功の秘訣は、オンデマンドのコンテンツをストックしてる機能に加えて、
「ソーシャルメディアでライブにそのURLが流通すること」
だった。この場合にライブなのは
「ソーシャルメディアでのユーザー同士の関係性」
である。
「あの映像、すげー楽しいんだよね!」
「え、どれどれ?」
「このURLだよ。http://www.youtube/〜〜」
「へー面白いね!」
これがこの二人にとっての真のライブ。
「昨日流れたTV番組が面白くてさー」
「何それ私、見てない」
「じゃぁDVD出るのを待とうか」
「・・・・・」
これでは忘れてしまうし、DVDを買うのは本当のファンだけであろう。P2P正当化の人がよく言ってる正当化の論点で間違っていることがあるのだが、
「本当のファンだけしか買わない商品ではビジネスが広がらない。」
それで良いならマスメディアに広告宣伝費もかける必要はないハズだ。
でも面白いコンテンツを作り続けるためには、それだけじゃやっていけないんだと思う。
テレビが多くの人にデファクトな存在である時には、「今やっている巨人戦」「今、流れてる全員集合」がライブだった。
しかし、多くの人が多くの時間軸や興味を持って、むしろ、同じ時間を共有することが特別になった今、必要なのは、「タイムシフトしてでも今見られること」になる。
STBも、オンデマンドコンテンツについては、PCや携帯で広がるソーシャルメディアとの親和性の高さと、リビングの役割としてのライブ再生を実現できる地上波の代替としての両方が必要だ。
この二つが分離してしまうと結局、「意味なくTVをつけておいて、何か面白いものが流れているかを待ってしまう地上波デジタル」には勝てない。
ソーシャルメディア対応については、URLというインターネットの仕組みと、twitterやtumblr、モバゲーやmixiのような情報共有のプラットフォームが多数のユーザーを抱えているのだから、単純にインターネットやモバイルデバイスにうまく対応すれば、最も効率よく実現できる良いということになる。
例えばツイッターであれば、誰かが今面白いTVやってるよ!と言うのがあったら、「@俺のTV ○○チャンネル」と書いたらチャンネルが変わるとか、外出先なら「@俺のブルーレイ 録画 ○○チャンネル」みたいなことを書いたら録画が始まるとか。大事なのは、そういう機能が実現できるか否か、ではなくて、ツイッターに流れる他の人のつぶやきから、簡単にその映像を見るためのアクションが起こせることだと思う。
機能実装自体はテレビやSTBが、ツイッタークライアント機能を実装すれば今でも簡単に実現できることだ。
これはあくまでもツイッターで実現する一例なので、別にこれが良いというわけではないが、こういう意識でさまざまな人の興味の動線に入り込んでいくことが必要で、電波利権の上に成り立つ今のTV局ではビジネスモデル上対応するのが難しいというのが本書のポイントであろう。
結論としては、今のところニコニコ動画とYoutubeが映像で、twitterはユーザーアテンションを得る次世代のプラットフォームを握る可能性はあるよね、と言う月並みな結論で締めくくります。どれも今現在の収益構造(刈り取り方法)が見えてないことが象徴的。是非ともこれらの経営者には頑張って欲しいですね。
#Amazonも2002年までは「凄いけど、いつ潰れるか?!」なんて言われたサービスであることを思い出すと良い。
URLを交換したもの同士のライブ性っていう発想は面白いなぁ。なるほど!とおもいました。
ライブという共犯性は、かならずしも実時間を共有してなくても成立するということとですね。
あの本おもしろいよといって共有することと、URLの交換はちがうのかなと思ったのですけど、むしろURLは、本ではなく、本のあるページの共有という感じがあって、それが同じ箇所で盛り上がったもの同士ということがライブ感になるのかなぁとか考えてみました。
そういうライブ感の独占的配給システムがテレビ、新聞にはあったわけだけど、それがネットの登場で独占できなくなったよねというのは、感覚的にわかるような記がします。
ボクは、ネットとはコンテンツ流通システムがオープンソース化したものだと考えているのですが(たとえば電波、出版流通、新聞販売店がオープンソース化)ますます、それはあながちまちがえじゃないなと思いました。