September 23, 2008
長いので先に結論を書いておきますと、
「広告が悪なのはなんとかならんかね?」
という話です。
赤いところは、広告・アフィリエイト。青いところは、情報。大半が広告・アフィリエイトで占められている事が分かる。もう、全くワクワクしない。
前にも「F's Garage:はてなダイアリーにとっての成長とは?」で書いたけど、
はてなダイアリーと、はてなキーワードの関係はこうだ。
1.ダイアリーユーザーが日記を書く
2.日記の中からキーワードを抽出して、はてなキーワードというwikipeidaライクな辞書ページに自動リンクが貼られる。
3.はてなキーワードのページに対して広告が貼られている。
この仕組みのトータル的なメリット
1.はてなキーワードに対して、ダイアリーユーザー中の外部リンクが集中するので自動的にSEO対策になる。
2.はてなキーワードに広告を出し、ダイアリーの文中にリンクを貼ることで、ユーザーの日記には広告を貼らなくて良い。
3.もちろんコンテンツとしての、はてなキーワードのメリットが享受できる。
はてなの場合は、キーワードに広告を外出しする形で広告モデルを実現して、はてなダイアリーを無償提供しています。
また、それ以外のblog事業者は、ユーザーページ内に広告を表示する折り合いをつけて広告モデルを実現しています。
ユーザーに嫌がられながらも、無料だから仕方あんべ?、と言う関係性。
しかし、それでいいのか。
そもそも変えて行かなくてはいけないのは、
「広告はユーザーにとっての悪」
という構図なのではないだろうか。
以前、某社のblogサービスで起きた広告騒動。blogの記事下に広告を入れたら、ユーザーの反発が想像以上に大きかったというもの。
もちろん、それは収益が事業者側のモノになるからというのはあるだろう。無料だからと言っても搾取されてる感があるようでは理解を得ることは難しい。(あと、広告の質が悪かったね。)
また、ごく一部のユーザーが有料プランにお金を払う人がいる。その結果、広告が表示されなかったり、はてなダイアリーリンクがオフに設定できたりする。ただし、サーバをシェアすることで発生するコスト負担を自分でしているという感覚ではなく、嫌な情報やリンクを取っ払うため、という意識でやっていることだろう。
「広告はユーザーにとっての悪」という構図を簡単に取っ払えないところは、現在の広告モデルの基本的な考え方に起因する。
そもそも何故、その記事に広告を貼ることで収入が得られるのか?
広告商品にとって価値のない記事に広告を貼っても、狙ってる広告効果は得られないハズだから、特に日記しか書いてないような大多数のblogに広告を貼っても無意味だ。
しかし、blogサービス全体でPVの総数として見ると見方が変わってくる。
トータルのどんぶりの世界の中では、いくばくかの割合でクリックされている。できるだけ多くのページに広告を貼れば、それなりにクリックされて、その数がバカにならなくなるという確率論の世界が存在する。
君は絶対にバナーをクリックしないかもしれないし、Firefoxのプラグインを使って表示もしてないかもしれないが、それ以外の誰かがクリックしてる。
多くのblogサービスはユーザーblogページに広告を出す。だからこそ、事業者側はとにかく無料で提供して、広告を巧みに配置して、少しでも目にとまる位置に広告を起けば売り上げが上がるという構図ができあがる。
そして、このモデルにとって重要で、しかも広告が悪のままの存在になってしまう原因は、blogの記事の質は結構どうでも良かったりするところ。一番、大事なのは「数」だから。
つまり、「場所(露出機会)の提供」だ。あとはGoogleやOvetureがよろしくやってくれる。
なお、はてなについては、数ではなく質だと思っているのだが、そちらについては、「F's Garage:はてなダイアリーにとっての成長とは?」を参照のこと。
現状の問題は、はてなにしろ他のサービスにせよ、広告が「悪の存在である」という構図が一切変わらないことだ。
広告の搾取感が拭えない、嫌儲感で、趣味に儲け話を持ち込みたくない、という純粋な気持ちというは確かにあると思う。
まぁ気持ちはわかる。だって、多くの人がそう思ってるから。
でも、そもそも昔は確実に存在し得なかったモデルだ。
もうちょっとうまく折り合うようにできないものかと思っている。
簡単に言えば、
「あなたのブログから何かが連想されて、そこにあった商品をクリックして買った」
という現象から、みんながハッピーになることがちゃんと連想できれば良いのではないだろうか。
「商品を買った人は、お金を支払う形で、何かの情報や幸せを得た」
「商品を売った人は、なかなか知ってもらえる機会がないのに商品を買ってもらえた」
「そのクリックに対して、あなたは多少なりとも対価を得た」
「場所を提供しているサービス事業者も、その機会を提供したことで対価を得た」
みんな幸せじゃん。単純に広告がイヤだという気持ちさえなければ、誰も損してない。
昨日、会社帰りに、週間東洋経済を買ったんですわ。Google特集があるからって。
でも、どこでその情報を見たか全然、覚えてないんですよ。
多分、どこかのサイトで見たと思うんです。中吊りでは見たかもしれないけど、購入した動機はもっと記事の中の話に言及されてた一言を見たからであって、見出しだけじゃない。
別にGoogleのカフェテラスの記事なんて今の自分に関係ないし。
でも、そういう特集を週間東洋経済の人が頑張って作ってさ。
それを僕が広告で見かけて、なんかそこそこ詳しい一言が書いてあってさ、
面白そうだなって買って、実際、得したら、みんなラッキーじゃん?
なのに、なんで広告は悪なの?
ブログサービスによっては、ブログページ内の広告がクリックしたらレベニューシェアの形で収入が入るサービスを提供しているところもある。
しかし、そんなに人気はないような気がする。
何故かというと、広告は邪魔者であり悪という意識は少なからずあるからってのはあるだろう。
だから、一社が仕組みを整えるだけじゃダメってのはわかってる。
しかし「広告は悪」であることをスタンスに、エンドユーザーと直接関わるコミュニティサービスが広告の取り扱い方を決めていては、いつまで経っても、広告は邪魔者でしかない。
ひょっとしたら技術と、Google,Yahooによるビジネスモデル提供が先に行かないとダメなのかもしれないけど、広告とユーザーのインターネット上のアクティビティがうまく前に進むようにするにはどうしたらいいか?というのは、各事業者がそれぞれ持つべき考え方なのではないだろうか?
別に、センセーショナルにする必要はないけど、少なくともそういう目的を持って、ユーザーとwin-winの関係を作れるようになって欲しいモノだ。
##あ、絶対ツッコまれるから書いておくけど、広告ばかり貼ってあるスパムblogみたいなのは別の話です。手段と目的が逆転してる奴の話をしてるわけではありません。それはそれで解決が必要な項目だとは思うけど。
広告という時に、
そこに内在する印象として、
必要の無い人も含めて知らしめる、
というものを感じます。
fshinさんの描くwin-winのモデルは、
必要のある、もしくは、必要性を喚起された場合に
成立するのかなと思いました。
見る人にとって、
必要があったり、必要性を喚起されたりする率が
上がってきた「広告」(これを広告と呼ぶのか、区別したラベルを付けるのが良いかはまた別のおはなしとして)は
きっとwin-winになって嫌われないんだろうなーと
思います。
同感です。広告がないと物は売れない。だから広告は必要です。経済にとって。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5650.html
広告費の対GDP比率の推移を眺めて思索にふけるのも意義深いと思います。
人との出会いのようなものじゃない?
自分が好意を抱いたり興味を持ったり、あるいは必要だー!
と思う人とは、こっちから親しくなりたいって思うし、接近していくじゃん。
でも毎日毎日大量にすれ違う人がいたらさ、
全員に個人レベルで興味もつって無理だし、
相手にする時間もないし。
そして悲しいかな、人が多すぎて、
自分が本当にコレダー!って思う人とすれ違ったとしても、
気づきあえることは、滅多にないと思うよ。経験談。
だから、良きも悪きもひっくるめて、スルーしていくものだし。
たまに出会いの機会が来たとしても、
その中にはうわあコイツニガテ。。。鬱陶しい。。。クサ。。。とかって
敬遠したくなる人も、少なくない。
広告も同じじゃない?
興味あったら振り向くし、その出会いに感謝するし。
もっと深くお付き合いしたいって思えるし。
でも、広告って本来、単なる入り口だよね。
あくまで認知とか確認が出来るだけのさ。
人が興味あるのは多くの場合、製品・サービスそのものだし。
アーティスティックな人とか、エンタメに(いい意味で)飢えてる方々は、
純粋に展示物として広告を楽しめる審美眼を持ち合わせてたりも
するんだろうけど。
けどそれは、お金払って広告を打つ側の狙い=広告の本来の異議、
からは違うしね。
人が興味をもって、出会って、恩恵受けて、感謝する対象って、
あくまで製品・サービス。
だから、広告自体が単体で感謝されたり、よいなーって
思われることなんて、そもそもありえないんじゃない?
だからって極端に、広告は悪で邪魔者か?って言い切るのも違うと思うけど。
でも↑の言い方って、「人類は悪で邪魔者か?」って議論と近いかな。
中にはそーゆー人もいるかもしれない、し地球レベルで~とか壮大な
想像力
持ち出してくる人いたるするけど、そんなの誰視点で言うかによって、
全部変わるよ。
広告もおんなじじゃない。いいものもわるいものも。
まとめてみてしまったら、それこそインターネットは悪だーとかって叫んでいる、
朝のワイドショーの方々と同じレベルだよ。
同意です。
うちのマンションはまだ比較的新しめなので、マンションを売れ売れという広告が、結構毎日のようにポストに入ってきます。
マンションを売るつもりがない僕にとっては、この広告はとてもウザいわけです。
しかし、もし僕がマンションを売ろうかなと思ってたら、こういう広告はものすごい有用なわけです。
つまり、年齢、性別、年収、住所等のステータスがわかった程度では、この広告が適切な広告であるとは限らないし、僕が仮に住宅情報のWebサイトをみていたからと言っても、やっぱり適切な広告かどうかはわからないわけです。
だって友達のマンションを探してたかもしれないし、ただの興味本位かもしれないし、僕がプロでそういう仕事なのかもしれない。
またどこまで深堀してWebサイトの情報を見てるか?というのもマメな人とそうでない人で変わりますね。
たとえ、行動ターゲティング広告が出たとしても、漠然とした網を絞り込むことはできるけど、ものすごいパーソナライズされるわけではないってのと、
もうひとつ。
本当に、僕が見たい広告だけが出るようになったら、その恐怖たるや、ストビューの比じゃないハズです。
(人工知能と同じレベルで無理かなーとは思いますが)
技術的にはその方向を向いていますが、今のままだと運用できない。
その日のために何かを整えていかなきゃいけないってことだとは思いますね。
陸の孤島のような地方で育って、現在都会で生活する者です。
田舎で生活している時から、
田舎者コンプレックスがあって都会に出てきたのですが、
やっぱり情報って質にはかかわらず、量という部分で
すごい価値のあるものなんだろうなーと感じています。
都会に出てきて、カルチャーショックを受けるたびに
考えていたんだけど、量っていうのは
選択肢があるってこととほぼ同義だと思う。
質のいい情報であれ、悪い情報であれ、
情報を手に入れる手段が沢山あるだけ、
思いついた時だったり、必要となった時に
スグ情報を使えるのでしょう。
もちろん埋もれる可能性はあるし、
不愉快なものもあるかもしれない。
けど、各情報の処理はそれぞれで。
bad dudeさんのいうように広告も出会いみたいなものだし。
出会いを求めない人なんて、超少数派だと思うのに、
広告だと出会いって捉えられないユーザーが多いのは
ほんとに何でなんでしょうね。
まとまらない文章ですみません。