September 20, 2008
映画の興行収入が落ちているのは、なるほどやっぱりそういうのがありそうだ。
売春窟に生まれついて→未来を写した子どもたち - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
日本で映画評論家とか映画ライターとか称してる連中には、日本の映画会社が配給する映画をタダで試写室で観せてもらって、ちまちました感想文書いてるだけのが多すぎる。評論家といいながら、映画観ただけの印象批評ばかり垂れ流して、自分で資料を調べようともしないし、過去の関連作品を探して観ようともしない、作り手に直接会って質問しようともしない、撮影や編集の現場は経験したこともない、カメラの仕組みも知らない、シナリオやコンテも勉強したことがない、映画は観るが、歴史や政治や経済のことはこれっぽちも知らない、安楽椅子ライターが山ほどいる。
まるで僕がブロガーイベントに呼ばれて感想書いてるようなスタイルで、仕事してる人ばかりってことね。
(って、おいら誤解ありありの書き方してるな。ブロガーは個人の趣味にマッチングするというところで、ブロガーイベントとブログ記事にシナジーを生み出す構図なので、仕事で書いてる文章とは方向性が全然違います。あとイベントに行ったって、別にお金もらってないから。それと管理職が仕事を定時にあがってイベント行ってるわけで、相応に負担はしてるつもり。そこらへんは全然違うので誤解なきよう。)
前に、
F's Garage:2008年上半期の映画の興行収入4割減のナゼ?
でこんなことを書いた。
水野晴男さんや、淀川さんなどの洋画のカリスマエヴェンジェリスト亡き今、映画の良さを訴求して、人の興味を喚起できる人もそんなにはいなくなっているように思います。(つまり後進を育てていなかったツケ?)
玄人から見て実際、彼らがどうだったかは知らないけど、少なくとも僕等が子供だったころは、彼らが映画の魅力を牽引して、デートのツールとして成立させていたメッセンジャーだったのは誰もが認めるところではないだろうか?
話を戻すと、大事なのは、何故そうなってしまったか?なのかな。
これが成り立つのは、成功する映画の広告パターンとして繰り返し流用されてたってことだよね。
受け身となるライターでもお金が儲かるってことがポイント。
与えられた情報に記事書けば、映画に人が入って、雑誌も売れて、ライターは忙しい生活になって、みんなハッピーという仕組みですよね。
その辺のコミュニケーション設計をフレームワークとして見たときに「ブロガーイベント云々」に近いなーって思ったの。
別にお金もらってないけど、当然コミュニケション設計を、ブロガーのブログ記事とトラックバックとハイパーリンクを使って構成してるわけじゃないですか。
映画のライターの場合は、雑誌やTV、ラジオが中心となるだろう。
で、大事なのは、今でも広告として効果のある有意義な感想が得られるのか?ってのと、今回指摘されているような、ビジネスモデルから外れた映画に対しての評論家としてのアプローチはないんかい?って話だ。
問題の一つは、その枠組みでは、映画の魅力が活性化できてない可能性が高いってのと、
もう一つは低予算や、日本の配給会社が見向きしなかった映画が日の目を見るチャンスが失われるということだよね。
とはいえ、ライターからすると、マイナーな映画を紹介しても儲からないであればビジネスとしてキツイだろうから、そこはインセンティブモデルが変わらないとダメなのかな。
その人にブランディングさせるための実力があることが前提にすれば、配給会社に対する優位性を得るにはどうしたら良いか?を考えるにつきる。一番簡単そうなのは、Webと携帯を利用した有料コンテンツ配信で、記事にお金を出してくれるファンを獲得していくことかなと思います。そりゃ、お金儲けは難しいんだけど、他のメディアや映画サイトに展開するためにも値段つけなきゃダメだし、他の方法はもっと難しそう。
もう一つは、あくまで配給会社と広告代理店がコントロールすることを前提に、そっちが頑張る。
売り上げ下がったのがはっきりしたんだから、自分たちのプロモーションプロセスを含めて見直せって話なんだと思う。
ただ、いずれにせよ何かの権威に依存するだけの商売ってのは、モデルが変わったら破綻するので、独立性や優位性が担保できないと社会人として怖くないですか?って話に気がつくか気がつかないかの話だったりして。
衰退していくと、その「評論家」に払うギャラもなくなるので。「○○です、この映画はいくら払っても感動の涙が止まりません(おねえMAN調)」のような人たちは消えてなくなるので、一安心じゃないですか。そういえば最近の映画CMでは素人の試写会組?を使った「○○サイコー!!」が多いのでもう始まっているのかも。どっちにしろ「昼のグラサン娯楽番組」の人たちはリストランテ&本業を失うことになるかな?