February 17, 2008
1.文字の集合としての「小説」は、普遍的に多くの人に読まれる可能性があるメディアだ。
2.携帯電話というインターフェースを持って、文章に触れる機会が生まれた。
3.その上で、内容も読者にとって馴染みやすい内容だった。
ということであって、携帯小説を批判してるプロの文章は、高度すぎてユーザーについていけない存在と考えると、ユーザーにとってオーバースペックであったと考えてみる。
小説の文章が一般的な「国語能力」に根ざすモノなので、「クオリティの低い文章」=「バカ」という構図に当てはめやすいので、いかにも非難しやすいことであるが、国語をシステムに置き換えてみると、
「複雑で高度なシステム」 vs 「Web2.0に代表される簡素でシンプルな使い勝手のシステム」と比較してみると、全く同じことなのではないか?と思ったりする。
Webアプリは、デスクトップアプリ0.5だみたいな話があるが、これは僕も同意だ。アプリケーションのクオリティで言えば、どんなに逆立ちしても、Google DocsとMicrosoft Wordは比較にならない。しかし、それと携帯小説の文章ってレベル低いぜってのと同じなのではないか?しかし、クオリティそこそこでシンプルだからこそできることってのはあるものだ。例えば短納期で量産できるとか、共有しやすいとか。
今日、本屋で初めて携帯小説の本を見かけたが結構じゃないか。複雑で高度な文章が一切読まない人たちが、レベルが低いと言われながらも活字に触れる機会が得られていることそのものが素敵なことだと思う。
2003年だったかの忘年会議で、「blogを初めて活字を読むようになったよね」という話があった。僕もその一人で、それまでまともに本屋なんて行ったことがなかった。そうやって活字を普通のものとして慣れていきさえすれば、そのうちの数パーセント、数十パーセントの誰かが、今、携帯小説を批判しているプロの作家の文章を読むようになるって。きっと。
下記の富野由悠季氏のインタビューと重なる。
だから,日本の深夜アニメはつまらない」ガンダムの父・富野由悠季氏の講演をムービー込みで掲載
僕の場合,現在のYouTubeに当たるのが,ロボットものというジャンルでした。そして,ロボットものの漫画の上に,少しはこういう風な物語性,人間性があってよいのではないかと思うものを付け加えたのです。
ですから,YouTubeから入ってもいいんです。問題なのはYouTubeから入って,20年,50年生き残る,それからまた,YouTubeのシステムが別のものに取って代わられても載せられるようなメッセージやコンセプト……もっとはっきり言えば,デジタルでなくもっとしっかりしたハードコンテンツを持っていれば,100年先まで生き残れます。
別に今の携帯小説がすぐに息絶えるものでも構わないと思う。音楽CDもテレビ番組も安直なコンテンツに流される傾向はあるわけだし。
ただ、富野由悠季氏のインターフェースが「低俗な文化,低俗な産業」と表現されたアニメ産業でありTVに流れるロボットアニメで、台湾の講演の対象者がネットでYoutubeを活躍の場にしている(のかな?)し、携帯小説の読者がインターフェースにしているのは携帯電話だったということは素直に受け止めるべき。
そこにコミットしている作り手と、ユーザーである読者が、普遍的な価値を組み込んでいければ文化になるし、そうでなければよくある一時的なトレンドとして息絶える。ただそれだけだと思う。一番ダメなのはインターフェースの特性だけ見て、これは長続きしないと言ってしまうことだと思う。
MySQL?あんなデータベース使えないよ、Perl?何が良いの?って言ってた人と同じだと思うから。どうにも面白いことに新しい時代を作るのは、保守的と表現されてしまうメインストリームで活躍する人じゃないってことだろう。(一件矛盾するようだけど、既存の権威が過剰にへつらうのもよろしくないですね。)
翔泳社 (2001/07)
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破壊的イノベーションには感動!
優良企業、優秀な経営者は技術革新に滅ぼされる?
ここに書いたことこそが日本人がスペックダウンした要因じゃないんですかね。
小説がオーバースペックではなく、日本人固有の周囲数メートルにしか興味を持たないムラ意識が本を読まなくさせ、常に周囲数十センチメートルにある携帯だからこそ読むとすれば・・・日本人のロースペックが説明できそうですけど。
例えば「本を読まなくなった」という面は、携帯小説ととっては「元々あった要因」ですよね。僕が子供の頃から本を読まないなんて話はあったわけだし。むしろ携帯小説なんて書いても誰も読まないんじゃないの?というネガティブに利用される要因です。
スペックダウンした要因は携帯があったからじゃない。スペックダウンした日本人と携帯電話というインフラの組み合わせが、裏サイトに見られる諸処の問題を作っているだけだというのなら、実際どうスペックダウンしてるかは置いておいて賛成します。
そもそも携帯が普及する前から、援助交際なんかはあったし、チーマーなんてのもケータイ以前の出来事でしたよね。ポケベルぐらいはあったか。
あと携帯しか見ないことがムラ社会的ってのは僕はイメージが違っています。
何故なら、携帯の先には世界が広がっているわけです。最初はメールでリアル友達だけの繋がりだったと思うのですが、気がついてみたら出会い系やプロフサイト、掲示板、モバゲーなどを通じて、日本中の人と繋がるようになった。
良くも悪くも知らない人同士で自殺するなんてのは、それまでには起きることはなかったと思います。
そもそも子供って基本的に世界が狭いんですよ。学校でいじめられて逃げることを知らずに自殺してしまうとか。
僕も高校生の時にパソコン通信を初めてやったときに、こんな鉄の箱から、全然知らない世界が広がるのって純粋に感動しました。自分の日常が家と学校で閉じていることに閉塞感を感じていると、本当に感動するものです。
これは想像ですが、いまケータイを楽しんでいる人たちは、ようやくそういう世界の急激な広がりを知ったところなんじゃないかと思ったりします。
大事なのは大人の側が、ケータイの向こうに広がる世界を認知できていなかったというのが、ここ最近のドタバタに現れているのではないかと。
ちなみにギャル文字ってあるじゃないですか。
あれってものすごい創造性だと思いませんか?
そのものは一見バカっぽいかもしれないし、狭い自分たちの世界に閉じるものかもしれませんが、そうしたいと思ったことと、独自の言語表現を作ってるってのは、なんというか人間が持つ自然の摂理なのかなぁとか。
どういう発展でそれが成立したのかは知りませんが、何より一番最初にそれを作り出した人が凄いなぁと思います。
社会学者で発展の経緯を分析してる人いないんでしょうかね。興味あります。
その発想はなかった…!
破壊的イノベーションの極致として、あらゆるソフトウェア/コンテンツがボランティアベースで無料のものに行き着く可能性があるということですね。
お金の流れが変化するだけで、大人がやっている以上、どこかで誰かがコスト負担をするのは間違いないと思います。
ただ昔より人の純粋な知的好奇心や興味、行動が、他の人に与える影響が大きくなったってのはありますよね。オープンソースにおいては、コミュニケーションのカタチがソースコードで行われているわけで。
デジタルデータがコピー可能な存在である限りは、無償に近づいていくのは致し方ないところですが、媒体としてのデジタルデータが存在する裏側には、実際に会ってみるといったアナログなコミュニケーションに価値を見出すというのはあるわけです。
おかげで、オフ会に使われる飲み屋やカフェは儲かるわけですし、音楽フェス、メイド喫茶も大人気、そしてオープンソースプログラマーであることは企業にとって雇用する価値になる。
かくしてrubyをやってますとアピールすることで開発者にかけた人件費を人材採用コストの低減に利用するわけです。
携帯小説の話に戻すと、小説が出版されると、記念に購入するとのこと。これに疑問を持つ意見も見ましたが、それこそが、その文章に与えられたアナログ的な価値ですよね。そして同時に、あ、みんな普通の人間なのね、と安心するポイントでもあります。
これがデジタルデータがあるからいらねーなんてことになってたら寂しいもんです。
多分、そこには紙にしたことでの安定感、装丁に見られるリアル感を含めてコンテンツとして完結するのではないかと。体験の実在証明みたいなもんですかね。
旅行に行ってしょうもないお土産を買うのに近いのかな。
いずれにせよ、そこにはお金が伴うわけですよね。商売する人としては、連続的な体験を作り出してマネタイズするポイントを如何に見出すか?って話なんでしょうね。
いずれにせよ低コストでお試し小説を配信できて、ユーザーに判断をゆだねるという意味で、昔ながらのプロ編集者のおめがねに止まらないと出版できないという壁からは解放されているんでしょうから、そこは非常にインターネット的ではないかと。
それなら枕営業もなくなるだろうし(笑)
M-1グランプリも一次審査をネットで公開すればいいんですよ。そこは集合知にしちゃえばいい。さらに人気投票を事前にやったら、もっとみんな見るし、すげー盛り上がると思う。
f-shin氏は少々、現代の文化を過大評価していませんか。
単純なシステムならまだしも、ある程度のレベルに達したシステムを使用する人間には、それ相応の知識が必要となる、と私は考えています。
日本人のスペックダウンは正にその部分に問題があるのではないでしょうか。
過去の日本人は、小説を読む人間は文学知識を得るために学び、それ以外の趣味を持つ人間はそれに対する知識を身につけたものです。
近代の日本のみならず、世界的規模で言えることではありますが、娯楽が多様化し、「簡単」で「とっつきやすい」モノが増えています。
これは一概に文化へのプラスになると考えることは出来ません。
インターネット然り、本来ならメリットとデメリットを考慮した上で使用するものであり、それ以外の人々はメール機能によって連絡を取れるだけで、十分な恩恵を受けるはずです。
よく分からないけど楽しいから使う、仕組みは知らないけど便利で何でもできる、これが日本人のスペックダウンを助長しているのではないでしょうか。
簡易化され、「知識を持たない人間」でも気軽に読める。
聞いた瞬間は素晴らしいと感じるかも知れませんが、数世代前の人々の「気軽な娯楽」もまた文学であり、大衆小説だったのです。
この面を見ても、やはり全体的な娯楽の低レベル、低スペック化が進んでいることを感じますし、これは危惧する問題ではないかと思ってしまいます。
うーん。もしくは権威のヒエラルキーってのはみんな持っていて、
携帯配信 < 出版 < TV
というのを持っているから出版された携帯小説を買うのかもしれない。
応援している野球チームが甲子園に出るような感じ。ブロガーがNHKに出ると見てる人多かったけど、それと同じだし、応援してる馬の単勝馬券なんてのもこれと同じ。
もしケータイ小説に「共感」というキーワードがあったとしたら、それは愛着を伴った友達感覚であって、教師のような存在の「既存の小説」に入り込む余地はない。
あと、TVのヒエラルキーが崩れているような話を最近聞くことがありますが、実際のところどうなんだろう。それは一部の賢い層だけで、大多数はそんなことないと思うんだけどなぁ。
一つ前の書き込みは独り言ですので、二つ前の名無しさんへのレスではありません。
で、こっちがレスなのですが、
>f-shin氏は少々、現代の文化を過大評価していませんか。
>単純なシステムならまだしも、ある程度のレベルに
>達したシステムを使用する人間には、それ相応の
>知識が必要となる、と私は考えています。
僕がネットビジネスの仕事をやっている立場なので、そう思われてしまうのは仕方ないかもしれません。
良くも悪くもユーザーに利用していただけないと話が進まない仕事なので。
ただネットの世界でも、単純に迎合すればいいのか?というとそんなことはなくて、「うまく引っ張る」ことで高度なものごとを、如何に理解してもらうか?のアレンジが求められています。
その手段としてターゲットユーザーに浸透力の高いデザインを行ったり、携帯電話などのデバイスに最適化するということです。
なので、常に考えているのは、どうあれば浸透力の高い情報伝達手段やアプリケーションを提供できるのか?というところだったりします。
こちらの事情はそこらへんとして、
>簡易化され、「知識を持たない人間」でも気軽に読める。
>聞いた瞬間は素晴らしいと感じるかも知れませんが、
>数世代前の人々の「気軽な娯楽」もまた文学であり、
>大衆小説だったのです。
情報過多で、消費しきれないが故に簡単なモノ、簡単なモノに依存しすぎているのは、確かに僕も同意するところです。
ただ、それはテレビが既にそうだった。僕が子供の頃のテレビと、ケータイはそんなに変わるとは思えないんですよね。昔も、全員集合を見させてもらえない子供ってのもいたわけですが。
昔を知らないので間違ってたら指摘して欲しいのですが、大衆小説を読む人の裏側で、「まったくそのメディアに触れない人」というのも結構多かったんじゃないでしょうか?
そういう状況があって、そういう人たちが携帯小説で活字に触れるのであれば、「まだマシなんじゃないか?」って思うんですけど、どうなんでしょうかね?
また、いつの時代も衆愚ってのはあるものです。ラジオを聴いてたら、かつてのおにゃんこクラブのアイドルの歌が流れていて、びっくりするほど歌が下手でした。でも、そういう歌がテレビに流れて僕ら世代の心をわしづかみにしていたわけです。僕も普通に聞いていました。
でも、それでも音楽に親しんだ人が成長して、もっと素晴らしい音楽に触れたり、実際に演奏したりするようになると思います。
あと、あの頃のアーティストに比べたら、今のアイドルは歌も芸も達者です。クオリティは確実にあがっている。
大事にしたいのは、
「能力がある人はほっといても進化する」
「大事なのは、「何か」が存在することを知ること」
ネットは「大いなる体験版」であることも多いです。
情報過多で、一つの何かにかける時間が少なくなっているのは確かにそうでしょうね。Webもちょっとわからなければすぐにユーザーが去っていってしまう厳しい世界です。
また、ネットにあるサンプルソースをコピーして、ちょっと改造するだけでプログラムが作れてしまう時代でもありますが、その影で、それを憂い、本質を求める若い開発者もネットには少なくありません。
一定確率で正しいことを考える人が存在するハズというのは、僕は信じていることでもあります。
何かに触れる可能性があることこそが重要で、それなりにそこで経済が動いて、でも、時間がたてばハイエンドを志向する人が新しいイノベーションを作る。
そういうのはネットで仕事をしている人は無条件で信じているかもしれません。ネットの仕事してると実際にそういうことがあるんですよね。
返答して頂いてありがとうございます。
前者の点に関しては、お仕事柄、考え方が人それぞれになってしまうのは理解しているつもりです。数多くのユーザーに受け入れられるだけの何かがなければ生きていけない世界ですからね。
しかし、後者に関してはやはり、どうなのかと感じてしまうのも事実です。
>ただ、それはテレビが既にそうだった。僕が子供の頃のテレビと、
>ケータイはそんなに変わるとは思えないんですよね。
>昔も、全員集合を見させてもらえない子供ってのもいたわけですが。
この点に関しては、昔も今も変わらないと言うより、今に至る過程であったと感じてしまいますね。物事には流れがあり、スペックアップであれスペックダウンであれ、やはり突然起こることではありません。
経済の発展や、法の改正、娯楽の多様化と言ったあらゆる要素が絡んできますので、何が直接的な原因となったかを結論づけることこそ出来ません。ですが、様々な事象が積み重なった結果が現在の文化を作り出したわけですよね。
「昔も今も同じことはあった」のではなく、過去から現代に至る過程においで、徐々にスペックダウンは進行しているのではないでしょうか。
>衆小説を読む人の裏側で、「まったくそのメディアに触れない人」
>というのも結構多かったんじゃないでしょうか?
これに関してはその通りでしょうね、しかし、文章に触れることもそうでないことに対しても、一つの事柄に対して、現代の若者よりは深く興味を抱き、取り組んでいたのではないでしょうか。
衆愚の存在はどんな時代でも同じことでしょう、むしろ、それ以外の一般的な人々の低レベル化こそが私を悩ませるのです。全ての分野において低レベル化が進んでいるとは流石に考えていませんけどね。
>大事にしたいのは、
>「能力がある人はほっといても進化する」
>「大事なのは、「何か」が存在することを知ること」
全く持ってその通りです、だからこそ、より多くの人間が何かに深い興味を抱き、その道に通ずるために努力できるような文化を築けるよう、私も精進したいものです。
正しい考えを持った人間はどの時代にもいるから、それに頼るのではありません。私はやはり、正しい考えを持った人間が今以上に増えることを期待し、今後の目標になればと考えています。
やはり文化の発展とは、より多くのユーザーの理解があってこそ広がりを見せるものですよね。