November 24, 2007
昨日開催された、RTCカンファレンス「ブログ限界論」は、twitterでUstream配信の存在を知って途中から聞いていた。そこをきっかけに思ったこと。
ブログというのは、いわゆる昔ながらのWebサイトの一つの発展系である。コンテンツを見るのに認証などは存在せず、基本的に世界中からパーマリンク一つでアクセス可能になっている。それがメリットでありデメリットでもある。
最近、FacebookなどのWidget、Open Socialの動きが騒がれている。
これが意味するところは、今までインターネット上に存在するURIに基づくWebサイト(blog含む)という単位から、SNSなどがユーザー情報を保有するプラットフォームがメインになるかもしれない、ということであろう。
極論かもしれないが新しいレイヤーの上で、広告やプロモーションなどのビジネスも含めた、様々なコミュニケーションが動くようになるかもしれない。アテンションのスタートポイントとなることで、ユーザーを抱えたSNSが大きな手数料を得る時代。
もし「ネットを始める」が「mixiを始める」となって、かつ、そこでビジネスが完結してしまったら、Webビジネスは大きく変わる。
(だから、googleが影響力を失わないように、オープンな世界を原則とするために口出しするってことなのか。)
そういう局面を想像していたこのタイミングで、blog限界論を語るのは興味深かった。
■SPAMに埋もれるblogのクオリティについて。
今のblogに飛び交うSPAMの問題、自動化されたアドセンス狙いのサイト、F's Garageも被害を被ってるがblogの記事をコピーして、途中から広告に差し替えるようなSEO狙いのコピーサイト、blogがアフィリエイト狙いのモノ売りの記事ばかりで、blogに対する印象が悪い、信頼感が薄れているとか、そういう話はgoogleが作り出した秩序の限界ではないだろうか?
つまりblog限界論とは、現状のgoogleが作り出した世界の実情を示しているとも言える。
もちろん僕はgoogleを批判するつもりではない。単純に人間はお金がかかると、人の動きはそんなに甘くないということ。
例えばblogのトラックバックも素晴らしい仕組みだが、あまりにも性善説すぎてblogサーバやレンタルサーバに多大な負荷を生んでいるという現実がある。例えばトラックバックという仕組みを一つの政策と考えたら、政策の抜け穴を利用して金儲けしようとするヤクザな奴らが沢山沸いてくるというのと同じだ。
僕もECをやってるから経験してきたけど、悠長な集合知やgoogleが理想とした「リンクの数が多ければ有用なサイト」みたいに機械で判断できる単純なロジックは、お金の前ではまともに動かない。
やっぱりお金の前では「検索順位に影響があるかもしれないので、Yahoo!ブックマークで相互登録しませんか?」みたいな話が、普通に相談される世界なのだ。
賢い人が考えた理想郷は確かに立派だが、人間はそんなにいい人ばかりではないし、それ以前に彼らも必死なので、そんな理想に乗ってる余裕はない。
でも、それが今のインターネットを構成する素敵な技術達の結論だとすると、あまりにも寂しすぎる。
■tumblrや増田、SNSというライバルの存在
SNSやtubmlr、増田に人が流れているという現状があっても、ソーシャルメディアに共通する「個人の情報発信は気持ちいい」という原則は変わらない。
つまりインターネットユーザーの情報発信リソースの取り合いだ。
だから、どこかのサイトが大きくなれば、どこかのサイトのPVが下がることになる。
もちろんみんなで大きくなればwin-winだけど、周りを見てるとtwitter始めたらmixiアクセスしなくなったとか、tumblr使ったらblog書かなくなったとか、人間はそんなに器用ではないから、全体のパイが大きくなるというイメージは抱けない。実績としての登録者数はどこも増えていくが、実質的にアクティブ率が下がっていくところがあるはずだ。
しかし、いろんな情報発信の形と、それぞれの情報量が到達するスコープに対して、発信者のニーズがマッチするか否かの問題であれば適材適所に人が流れるのはとても健全なことだと思う。
ふと、「SNSって何よ。私見的再考。」で書いたことを思い出した。
今の段階で、SNSやミニブログというライバルとblogを比べると、blogの特徴は、
「個に依存して、かつ、不特定多数に発信するメディア」
という立ち位置だろう。炎上の可能性とかは、ここに紐づく。
そこに対して発信者が心地よいと思うか否かだが、母数が多くなって成熟してくるネット社会では、どんどん内輪になる方向(=クローズドSNSタイプ)になるのは必然だよね。人は安定を求めるから。
でも、「個人の情報発信」の意義ってのはあるから、そういうのが好きな人、向いている人がblogを発信していくという部分でのメインストリームは、もはや変わらないだろう。何せblogは「ホームページの代替品」であるからだ。
仮にSNSがプラットフォームになって、人の動線に一つ上のレイヤーが完成しても、インターネットというレイヤーがなくなるわけじゃないし、あくまでHTTPのアーキテクチャの上で存在する以上は、SNSの下のレイヤーに人が来なくなる心配はない。丁度、インターネットジャーナリズムができても、ニュースソースは新聞社が握っている限りは、この立場が逆転することはないというのと同じだと思う。
結果的に多くのユーザーが、mixiのように人間関係の中で閉じたSNSに適材適所を見いだしていくことで、メディアとしてマネタイズしやすくなるのはblogということになるかもしれない。母数は減るのでblogサービスのいくつかは売却されて合併したり名前が変わってるかもしれないけど、それこそが自然淘汰である。
そこを見据えるなら、新しい価値をblogに見いだして、できるだけ優良な情報発信者を某かの形で囲い込んだところが生き残るのかもしれない。(ターゲティングされてない現状のblogサービスより、本命はAMNだったりしてね。)
なお唯一、上記の理屈が通じないのは携帯電話ですね。携帯はURLのコピペもできないし、リンクも貼りにくいし、複数のサイトへ動線を流す文化もないので、一旦囲い込まれるとそこから外に出ることは難しい。携帯電話は極めて一人勝ちしやすいと言える。ここは携帯電話の発展と共に解消されることを切に願う。単純に「機能的にできない」まま普及してしまっただけだと思うから。
■blogを生かせる人たち
テレビを見ていたら、ルー大柴が何かの賞に選ばれたという話題が流れていた。
彼はblogでキャラを発揮して、ルー語変換がWebユーザーの浸透材になってネットにアクセスする人たちに広まっていきボトムアップから復活していったということだろう。
blogがきっかけで復活するという流れは、スゴイことですね。
インターネットってそんな力があったんだ。
彼がテレビから消えていったのは、きっと使いにくかったからなんだろうね。テレビって、その人で数字が取れるか、さもなくば全体のバランスが取れる人が重要らしいので。
ひな壇芸人とか「調和を作り出す役割」が存在するぐらいで、数字が取れる司会者と、そのサポート役というパッケージが基本となるのでは、ルー大柴は使いこなせまい。
しかしblogという「彼の城」では、その存在感を如何なく発揮して、Web上のコンテンツとなって、TVや雑誌メディアに戻ってきた。
ここにブログの可能性はあると思っていて、前に小泉+はてな+秋葉系+堀江=素を出せる人が売れる時代というエントリーを書いたことがあるが、自分でペースを作っていきたいと思ってる人にはブログは向いていると思う。
■ブログの可能性を自分の例で考える
さて自分はどうか?というと、個性的でありたいと思いつつも、アルファブロガーの人や、ペパボの他の社員と比べると際だった個性もないというのは痛感していて、単純に比較をしてしまうとブログをやっていくのは結構キツイ。はてブの数を気にし出すと正直、劣等感を感じることもある。
しかしブログシステムが出てくる前は、掲示板スクリプトを改造して日記を書いていたのだが、「いつ炎上するかわからない緊張感」の中で、インターネットに向けて文章を発表しているのは根本的に心地よい。
馴れ合いじゃなくて、自分の意見を試している感覚。
自分のドメインを持って、その城でどこまで自分の意見が認められるか?みたいなのは楽しい。そして何より、自分が書いたブログが数ヶ月後にでも、google経由などで誰かが検索してくれて、少しでも役に立てればものすごくうれしい。(でも、「RAID5」でgoogle三位は勘弁して。そんなのを3位にするのはアホ。)
なので、ちゃんと自分の意見が書かれている反論に限り、そこに時間を割いてレスをつけてくれることは、ものすごくありがたい。そういう不特定多数なコミュニケーションが好きだ。
こういうのも僕の中では既知の話なんだけどね。
誰だかわからないんだけど、誰かの心にひっかかるとうれしい。そんなシンプルな情報発信が可能な、電柱の張り紙みたいなメディアとして、楽しみたいと思っています。
僕は他の人たちがblog飽きたーって言って違うところに行ってしまっても、最低限度のアクセスがある限り最後までやり続ける自信があります。
レバレッジを期待するとか、利益を出すとか、人に教えて「あげる」なんてのは、もう仕事のレベルなので、そういうのは是非クローズドサイトを作って利益を出すモデルを作ってくださいって感じであります。