January 25, 2005
無償コンテンツは、最もクオリティが求められるコンテンツである。これが簡単に提供できないことが、ブロードバンド時代のインターネットが楽しくない理由ではなかろうか。
コンテンツホルダーにとっての無償のコンテンツの存在意義は、無償の対価として最大限の利益を得るものでなくてはいけない。つまり企画、内容ともども、無償コンテンツで利益を出すのは凄く高度なビジネスセンスが求められる。
ネットバブル時代に無償であることが行き過ぎて、無償であることが反省点のようになっているかもしれないが、ネットバブル時代の功罪は、サービスやコンテンツの品質があまりにも低いにも関わらず無償をうたっていたところであろう。つまり品質が悪い⇒ユーザーベネフィットがない⇒お金を出している人にもメリットがないという悪循環を経てビジネスにならなかったということが反省点ではないだろうか。
現実的には、そういう品質の維持が期待できないからこそ、過剰にコンテンツの権利保護に走ってしまうのではないだろうか。大手企業であればあるほど、対リスク、売り上げを上げるための現実であろう。その重要性は一人の社会人として十分わかる。だから無下にwinnyの作者のようなことは考えない。
しかし同時に、そういう現実にしばしばインターネット業界から足を洗おうかなと思う時もある。僕が思い描いていたインターネットの世界とは程遠いからだ。こういっちゃなんだがインターネットはもっと高尚であるべきだと思う。もっともっとコンテンツの使い方を良く考えるべきだと思う。この意見って、自分自身がどうにもできないくせに理想論?
もちろん有償のコンテンツやDRMが全て悪いと言っているのではない。最終的には権利保護された多大なビデオライブラリに、日本中、世界中どこからでもアクセスできることは重要で、そのためには権利保護は絶対に必要だ。
しかし、シンプルなインターネット技術の設計思想では、どうあがいても馴染まないこともあり、そういうことの回避のために多大な工数をかけて開発リソースを提供するのがむなしいと思うことがある。またユーザーとして一番楽しいことが、リスクから見送りになって、骨抜きになってしまったりすることも含め。
先の右クリック禁止の議論は、どこからかURLのみのリンクを貼られたのかはよくわからないが結構な反響をいただいているような気がする。僕が言いたいのは、右クリック禁止そのものの是非ではなく、カルチャーとしてのインターネットを理解して、それに見合ったビジネスの仕方を考えて欲しいということである。人間は恐怖を覚えたときにこそ、防御体制を取ったりリスク回避の行動をしたりする。しかし、例えば「右クリック禁止」というのは、あまりにもインターネットに対して無知すぎはしないだろうか?前のエントリにも書いたが、右クリック禁止を回避できないユーザーに、ソースを見せても意味がないとも思うし。
と、まぁそんなことを言っても、僕自身もインターネット文化なるものを理解してるわけではないと思うし、基本となるUnix文化によく見られるエリート思想的(暗黙の努力が必須という考え方)なところは苦手だし、そういうところはユーザビリティやアクセシビリティなどという概念で、さまざまなユーザーに対してラッピングしてあげるべきで、だからこそ情報設計こそが必要!とか言ってるわけだが、Webサイトの情報設計もビジネスディシジョンを前提としたコンテンツありきであって、その先にこそ、真のインターネットコンテンツがあるんだろうなと思っている。
そういうプロジェクトに100%コミットしてみたいものだ。
金儲けだから仕方ないんだが、コストの問題でライトな仕様になって、当初の目的が達成できなかったりするとき、確かに平和な生活はできるが、そういう仕事の仕方そのものに限界を感じていたりもする。そして、そのコストの源泉は、また恐怖に対するリスクこそが根底にあったりする。
乱暴に言うとビジネスとは、「誰にでも作業を完遂できるモデルを作ること」だと思うことがある。それはコンテンツでもシステムでも、サービスでも。だから、お金を貰う社会人としては、理想論を言っては始まらないのだと思う。決して僕は、一人で作り上げるようなアーティストではないのだから。しかし、えらそうなことを言っている自分も結局のところジレンマに陥っているわけだな。